自己,自我,私,自分,自分自身,第一人称,心理学では,自己:自分から見た自分,自我:他者から見た自分,と区別しているようだが,要するに自分.自分で見つめる自分であろうと他者から見える自分であろうとここでは自己•自我を区別せず,自己=自我=自分=私,慣用的に不自然でない限り以下「自己」と表記する.
今回のテーマは,個体が自己に優先する,である.自己が存在するのは間違いない.自分がどう考え,どう感じ,何が好きで,何が嫌いか,自分の能力はどの程度か?他者よりも自分のことのほうがわかっている,はず.自己の存在は何ものにも優先するようだが,その自己よりも個体が優先することもあるのではないかと思う.
1歳,2歳,3歳,保育園,幼稚園,小学校,中学校と成長するに従って自己が形成されてゆき,大人になるまでに完成する.大人になってからも成長(変化)するかもしれない.遺伝子の影響が確かにある生来の資質に,成長期の環境,親のしつけ・教育,家庭の環境,運や出会い,本人の思考・指向・嗜好,習慣などが重なり合い時間をかけて自己は形成,成長,変化していく.
しかし,生まれた時には自己がない.産院の新生児室で他の赤ちゃんと一緒にいることを想像すると,親が誰であるか,どんな境遇に生まれたか,自分の資質はどうか,どんな才能があるか,どんな性格か,どんな思想を持っているかなど,本人に自己はない.この点で少なくとも個体が優先するといえるが,しかし,ただそれだけで個体が自己に優先する,とするのではない.
生まれながらの資質の上に,成長とともに自己がめばえ,成長,確立に至るが,自己は脳内の知覚,認識,思考活動による産物といえるのではないか.異なる認識や思考をすれば別の自己が産出されることになるのではないか.「実存は本質に優先する」(サルトル)に近い考え方かもしれないが,断るまでもない,サルトルほど深くない.(^o^)
自分探しの旅に出るというが,脳内にある自己は旅をしても見つけられないだろう.旅には,日常的瑣事に煩わされずに,脳内旅行(思考)に集中できるメリットはあるかもしれない.しかし,旅をして見つかったとしても,それは脳が認識しただけで,脳が決定した自己であり旅とは関係ないのではないか.脳の認識が自己を決めていることを否定できない.極論すれば,自己は自己の思い込みでしかないのかもしれない.「個体が自己に優先する」というのはこの意味においてである.新生児室にいる自分を想像すれば,アプリオリをベースに幾つかの「自己」の選択肢があるはずである.その中で自分の脳が,ある「自己」に決めているのであれば,「自己」の再選択(再構築)は可能だろう.少なくとも私は,自己は融通無碍なるものとさえ思っているが,もし自己が見つけられない,再構築できないというなら,いっそのこと,自己を全く考えないという手もありだ.何も考えない,というのは行き詰まった時の究極の一手,思考の上の結論と同じではないが,モラトリアムとして,それはあり,だ.
ほんとうにいいたいのは,「自己」にそんなにとらわれなくてもいいのではないか,ということ.(^o^)
写真:モン•サン•ミッシェル,砂州の中を歩く人々