政治哲学の存在意義

 問題は何か?その問題を見出し,理解し,考察し,最終的に回答することはさらに一筋縄でいかないことが多いが,全体主義に対する20世紀の政治理論による諸々の批判の意義を考えるに際し,北朝鮮の軍事パレードにロシア,中国の要人が揃って観閲するのを目にすると,意義の存在自体を疑いたくなる.

 全体主義とは民主主義に対する権威主義的体制の一つであり,個人やグループにより社会が「全体的に」政治化されていく体制で,権力の集中とともに腐敗と横暴・暴力がともないがちである.個人の権利,自由,尊厳,表現が侵害され,法が歪曲され,反体制者の拘束,粛清,さらに大量虐殺にまで発展する可能性がある.古典的リベラリズムに敵対するファシズムの原型として,イタリアのファシズム体制,ナチズム体制,スターリン体制があり,他に中国毛沢東体制,1950年代の北ベトナム,さらに北朝鮮,ロシアのプーチン政権,ミャンマーの軍事政権も全体主義と呼べるのであれば,全体主義は今も存在するということになる.ハイデッガーやシュミットなど全体主義を,容認したと認識可能な学者がいたのは事実だが,バーリン(多元論),コリングウッド(文明社会の擁護),シュトラウス(古典的政治哲学の復権),アーレント(自由論),ロールズ(公正としての正義),マッキンタイア(アリストテレス的人間学),オークショット(合理主義批判)など,枚挙にいとまがないほど多くの政治哲学者がいろいろな方面から批判していることから,全体主義が危険なイデオロギーであるとともに,その体制に陥る可能性が低くないことが示唆される.全体主義から逃れてアメリカに亡命した学者もいるが,従わなければ人権が否定され,自由と権利が侵害され,拘束,粛清など身体に危険が及ぶのだから合理的な行動だったといえる.リベラリズムが正しいとは限らないが,全体主義に対して否定的な論調が多く,全体主義の問題点の指摘,および全体主義に陥らないようにするには,と考える政治哲学者が多いことから全体主義が最も危険なイデオロギーの一つであることに疑問の余地はないだろう.

 その全体主義に対抗するのが,リベラリズムやデモクラシーと考えられているが,反全体主義と一括りにはできないのは,上記の反全体主義者同士が,たとえばロールズを批判するマッキンタイア,功利主義を批判するロールズ,功利主義内でさえベンサムを評価とともに批判するJ•S•ミル,リベラリズムに対するネオリベラリズムとリバタリアンなど,諸々の批判の応酬があることから明らかである.この点から完全無欠の理想的な政治思想はないことが示唆される.つまり,全体主義だけでなくそれを批判する諸々のイデオロギーにも瑕疵はある.

 いわゆる古典的政治哲学者のソクラテス,プラトン,アリストテレス,カント,デカルト,ハイエク,フーコーなど偉大な先達の英知を総動員しても完璧な理想が描けないことからも,理想的な政治哲学が存在するとはいえないだろう.

 しかし,意義が小さくとも,理想は存在しなくとも,全体主義者が連帯をしても,民衆が擾乱を起こしても,少しでも理想に近づくために,社会をより良い状態にするために考察を重ねるのは,ホモ・サピエンス・サピエンスの本性であると考えるのであれば,意義があるとするしかないだろう.意義の有無はまず意義があると認め,さらに改善するために思考を重ねるのは一種の止揚といえるのではないか.ネオリベラリズム第二波で起きたような,ニヒリズムが感情や他のイデオロギー,要因などと化学反応を起こして想像を絶する化合物が生成することが起こりえる.ホロコーストを引き起こしたナチズムのような暴走や不測の事態を抑止するためにも,政治哲学者が全体主義に限らず警鐘を鳴らすのを,改善しようとする試みそれ自体に意義があると考え,冷静に耳を傾けるるべきなのではないだろうか.

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