明治維新の3傑が西郷,大久保,木戸ならば,明治前半の政治家2傑は伊藤と大隈,というのは私だけだろうが,大隈は伊藤より3歳年長(1838年と41年生まれ),肥前と長州の出身.この出身地が特に「在野」を連想させる大隈に生涯影響する.二人の関係は明治初期,大隈邸の近所に伊藤が住んでいた「築地梁山泊」に始まる.木戸・西郷1877年,大久保78年相次いで亡くなり,その後「明治14年の政変」(1881年)まで伊藤は内務卿,大隈は大蔵卿としてともに国政を担う.「政変」後二人は別々の道を歩み,伊藤は,大日本帝国憲法制定,国会開設に向けて計画を進め,初代内閣総理大臣となり第1回国会を開く.4度組閣し,通算8年近く首相を務める.一方大隈は下野し,立憲改進党を結党,東京専門学校を開校,民権運動と教育に約6年間捧げ,第一次伊藤内閣末期に外務大臣として返り咲く.
「明治14年の政変」は,何だったのか?伊藤は「あれは大隈が突然言い出したこと(財政再建のために2年後の国会開設を提案したこと.国会はそのような短期間でとても開設できるものではない),そのため辞せしめ」と言ったとある(原敬日記第2巻).ライバル競争でも,大隈排除計画でもなく,大隈が急進的過ぎて国政にとって危うかったから止めたに過ぎない,つまり,「政変」というほどでもなかったとも考えられる.伊藤は自分の内閣で大隈を外務大臣に任命,大隈は早稲田大学の記念式典で伊藤に来賓祝辞を依頼したことからも二人の関係は険悪なものではなかったことが推測される.また,大隈は伊藤の葬儀に際し,「なんと華々しい死に方をしたと大泣きした」との伝もある.
伊藤は天津条約締結,朝鮮初代統監就任などと対外的にも活躍し,軍部を制御し平和裡に進める,シヴィリアンコントロールの先駆者とみなされる.安重根に銃撃され,息を引き取る前に狙撃者を「馬鹿な奴」と言ったとされるが,その意は,「俺だからまだ良かった,他の過激な考えを持つ統監だったらもっと強圧暴力的な併合になっていた」,とも取りえる.当時の皇太子李垠を招き日本で教育を受けさせ,大磯の蒼浪閣を遺している.「斡旋の才」(吉田松陰),調停・仲裁がうまく,語学力があり,明朗陽気で視野が広い,思慮深く慎重,やさしく思いやりがあり,終生政界の陽の当たる場所を歩いた.当時の有力者にとって特筆することではないが,妻以外の女性関係が派手だった.遺産が思ったほど多くはなく明治天皇が遺族を配慮したことから,金銭欲あるいは,蓄財欲は低かったといえるかもしれない.国葬.
大隈は「政変」後,怒りや恨みもあったろうが,切り替えが早かったようだ.民党活動と教育に勤め,板垣退助と憲政党を結党し初の政党内閣を組閣(隈板内閣1898年),「政変」から17年経って首相の座に着く.その間に手榴弾テロに会い右足を失っている(1889年).それでも挫けない.逆境にあってもあきらめない.豪放磊落,ハッタリ,大風呂敷,負けず嫌い,有為転変,毀誉褒貶多く,熱しやすくせっかちで急進的,在野が長く,金銭には聡かった.1915年総選挙前に演説がレコードになって配布されるほど人気があった.また,福澤諭吉と仲が良く,若手大隈一派(矢野竜渓,尾崎行雄,犬養毅など)は慶應出身者が多かった.東京専門学校を開校したのは福澤の影響があったからではないか.女性関係は複雑ではなかった.国民葬.