ディオゲネス(中央,キュニコス派・犬儒派)
世俗の権威を否定した.自足と無恥が幸福に必要とし,ボロをまとい,樽に住んだという.皮肉屋(“cynic”の語源)といわれるが,奇矯な行為も多く彼自身に異常があったと思われる.しかし,足るを知り恥と感じないことには一理ある.問題は恥の定義.
ゼノン(左下,ストア派)
この世は神が決めた自然の法則に従っていると考えた.人生を自分の力で変えることはできない,自然に従って生きる.経験,善悪に対する欲望や感情を押し殺すべき,そうすれば人は高潔な人生(自然の法則に沿った人生)を送ることができる.自然な情念・欲望はそれほど強いものではないと考えた.強すぎる欲望は抑えることが自然に従って生きること.そこからストイック(禁欲的)という意味が生まれたが,情念や欲望は往々にして強いから問題となる.本末転倒というか,情念や欲望は元来強くない,とすることに無理があるが,自然に従って生きることによって心乱されず平穏に生きられる,苦から解放される,を人生の目的とするのは正反対のエピクロス派に共通する.人間は自然法則を変えられないが,人生は運命によって決まるものではない.変えられないものに飲み込まれるか(自然に任せるか),禁欲的によって生きるのか選べるという.自然の理という観点から,快楽や富を楽しむ人も,痛みや貧困に苦しむ人も同じように考えるべきと説いた.
エピクロス派(右下,エピクロス主義)
人生の目的は楽しむこと.怖れがないこと穏やかでいることが幸福とし,幸福を求めることは,喜びを追い求めること,と考えた.それは具体的に美食,セックス,麻薬などによる快楽を求めることではなく,立派な態度で暮らさない限り,気持ち良い人生は送れない,気持ち良く過ごさない限り,立派な態度は保てない,とし,友人を作ること,知識を得ることに大きな喜びを見出すとした.それがいつのまにか,快楽を求める免罪符的な意味になっている.
アプローチはそれぞれ違うが,要するに良い人生を送るにはどうしたら良いか,幸福に生きるにはどうしたら良いか,それぞれの考えを述べている.幸福な人生,良い人生にそれほどの違いはない.彼らの考えを自分なりにどうアレンジするか,どう解釈するか,はたまた,全くオリジナルな考えをするか,全部乗せにするか,いいとこどりにするか.あなた次第です,ではなく答えは自ずと出ている.なんちゃって.