「フカシギの数え方」という動画が日本科学未来館から出されている。出発点からゴールまで行く道が,下図のように2×2あると,同じ道を2度通らないでAからBに行く方法は12通りある(最短に限ると4C2の6通りの組合せ)。これが4×4になると8512通り,5×5になると126万2816通り,6×6だともう5億を超えてしまう。これは「組み合せの爆発」と数学的に呼ばれるが,まさに爆発的に増加する。しかも,同じ道を2度通らない方法に限ってだから,もし,2度通ってもよいとなれば無限になってしまう。 

人生は,受験や就職や結婚に限った大きな岐路だけではないと考えると,4回や5回の岐路ではとてもすまないだろう。習い事を何にするか,趣味を何にするか,勉強は何をどれくらいするか,部活はどうする,食事は何を食べる,何時間寝るか,誰を友達にするか,本は何を読むか,テレビは,映画は,遊びは,など小さな日々の選択を数えたら5×5どころではないと考えていいだろう。つまり,私たちの人生の歩み方はひとつやふたつではなく,5×5の126万通りでもなく,無限の人生の組合せの可能性があるということになる。それを詩的に表現したのが,高村光太郎の「僕の前に道はない」,「ぼくの後ろに道はできる」で始まる「道程」だと思う。

ただし,思うようにならないことがあり,全て自分で決めた通りにならない,運・不運,偶然もある。つまり,人生はどうなるかわからない,どうとでもなる,どうともならない,さっぱりわからないもの,ともいえる。

萩原慎一郎は処女歌集「滑走路」が刊行される前に2017年自死した。32歳だった。どうして自死したのか?は,本人にしか解らないことなので,それについては考えず,彼の歌と人生を少し考えてみたいと思う。彼の歌がそうさせるから。

彼は中学受験をして,名門校のひとつ武蔵中学・高校に合格し入学した。前途洋洋だった。そしてそこでいじめにあった。また,歌にも出会った。いじめが大学受験およびその後の彼の人生を狂わせた一因であることは間違いないであろう。精神状態が不安定になり,精神的に病み,大学受験,就職に悪影響を及ぼしたと言われている。

一方で,挫折,叶わぬ恋,絶望,不満,憂鬱,希望の持てない人生,焦燥,躁上,希望,喜び,感動などは誰でも経験,知覚することでもある。大小はあるにしても,全ての若者は悩み苦しむ。そして,創作する人は全て,創作することによる喜び,苦悩,救済を経験する。とにかく,特に彼だけに限ったことではない。

独断で区分けし,全295首から勝手に選んだ彼の短歌を紹介する。「滑走路」より

思い出

筍のように椅子から立ちあがる昔の僕のような少年

あのときのこと思い出し紙コップ潰してしまいたくなりぬ ふと

仕事

ぼくも非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼食べる

シュレッダーのごみ捨てにゆく シュレッダーのごみは誰かが捨てねばならず

頭を下げて頭を下げて牛丼食べて頭を下げて暮れゆく

好きだ 好きだ 好きだ 好きだと伝えても届かない恋ばかりしてきた

かっこよくなりたい きみに愛されるようになりたい だから歌詠む

絶望

ズタズタとなってしまったミキサーのなかの人参みたいなのです

箱詰めの社会の底で潰された蜜柑のごとき若者がいる

希望

朝が来た こんなぼくにもやってきた 太陽を眼に焼きつけながら

抑圧されたままでいるなよ ぼくたちは三十一文字で鳥になるのだ

自転車のペダル漕ぎつつ選択の連続である人生をゆけ

彼の歌は,素直,正直,繊細,デリケートだ。そしてフラジャイル”fragile”。仕事,ヒエラルキー,将来,そして恋について,感情をストレートに詠んでいる。希望を残しながらも絶望が優勢,あるいは,絶望が優勢なんだけど頑張っている。時に前向きになるが,mostly negative.

しかし,いじめを受け,それが原因で人生の階段を踏み外し,自死をした歌人と,紹介されるべきではなく,ただ偏(ひとえ)に彼の歌と向き合うべきだろう。彼は,今の若者に限らずいつの時代も青春時代に経験する不満や希望,絶望や奮闘しようとする気持ちを,文語や従来の短歌の詠み方にとらわれず,今風に現代社会を詠んだ歌人だと思う。

歌集のあとがきを読んで,精神的に病んでいるとは思えなかった。文章のトーン,特に短歌でお世話になった人々,両親,高校の先生を含めた周囲の人々への謝辞はとても冷静・健全に感じた。その謝辞は,今となっては,お世話になった人たちへのお別れの挨拶だったともとれる。私は,彼の自死は,彼が自分の人生として冷静に選んだことと考えたい。なぜなら、卒業して14年経っている,短歌で数多くの受賞をしている,「滑走路」未収録の歌が千首以上など,つまり実績と時間の長さを考慮すると,いじめと自死と精神的病気は彼の歌人人生と切り離して考えるべきだろう。

彼の遺した歌が訴えるのは,学校生活で受けた傷が一生に悪影響を及ぼす可能性があること,新卒採用での失敗を取り返すことは困難なこと,つまり非正規雇用からの脱出はかなり困難なこと,ひいては就職氷河期に当たった当時の若者の救済が必要なこと,セカンドチャンスの必要性,恋愛の悩みは時に本人にとって生死に関わる重い悩みとなり疎かにすべきではないこと,などに注目すべきだろうと思う。それらは,社会システムとして知恵を振り絞り救済に努めるべき社会制度問題だ。これらの問題は,以前のようにただ,「そんな弱いことでどうする」と叱咤激励するだけでなく,また慰め優しくするだけでもなく,制度的な救済が求められる。それが近代と現代の違い,望ましい国・社会の条件だと思う。

彼の人生,歌人としての人生は,無限通りある人生の組み合わせから,彼が自分で選んだ唯一の自分の人生だった。現代語で,口語で,もっともっと短歌を詠んで欲しかったし,もし詠んでいたら,どれだけ同じ境遇の若者を救ったことだろうと思うと残念でならない。

もし彼がいじめを受けなかったら,順調に大学を出て就職をして,幸せな人生を歩んでいただろうか?いじめを受けなかったら,歌と出会っていたのだろうか,モテていたのだろうか,少なくとも,このような歌は詠めなかっただろう。彼の生きた道が産んだ歌たち。

いまさら言わなくてもわかりきったことだが,歌だけで食べていくのは容易なことではない。というかほとんど不可能だ。少なくとも選者になったり,解説したり,教えたりする必要があるだろう。二足のワラジでも,非正規歌人でも,いいじゃないか,歌があるだけでも,というのは容易(たやす)いが,そして,実際そうはいかなかった,ということだろう。現世は残酷で,マスメディアは現金だ。もしいじめや自死がなかったら,彼や彼の歌集がスポットライトを浴び,これだけ多くの人に知ってもらい,読んでもらえただろうか。異例のベストセラーになっていなかっただろう。

人生は無限の選択の組合せだ。しかし,その人が生きる人生は唯ひとつ。

僕の前に道はない。

僕の後ろに道はできる。

独断で選んだ彼の歌を添付で付けておく。

マラソンで置いてきぼりにされしとき初めて僕は痛みを知った

キラキラと光るカードを集めいし少年の日の友を忘れず

母校なる小学校があるとは変わらずぼくは大人になった

これというものみつからず苦しみし十七歳は歌に出逢いき

完熟トマトの中に水源ありて すなわち青春時代

かっこいいところをきみにみせたくて雪道をゆく掲載誌手に

きみからのメールを待っているあいだに送信メール読み返したり

きみといる夏の時間は愛しくて仕事だということを忘れる

ただ好きと言えばいいわけじゃないのだ 大人の恋はむずかしいよね

おもいきり空に向かって叫ぶのだ 短歌が好きだ あなたが好きだ

遠景になっている恋二十代なのになあって夕陽に嘆く

こんなにも愛されたいと思うとは 三十歳になってしまった

手を伸ばし足を伸ばして転がれる深夜の孤独を何と呼ぼうか

毎日の雑務の果てに思うのは「もっと勉強すればよかった」

屋上で珈琲を飲む かろうじておれにも職がある現在は

非正規という受け入れがたき現状を受け入れながら生きているのだ

非正規の友よ,負けるな 僕はただ書類の整理ばかりしている

コピー用紙補充しながらこのままで終わるわけにはいかぬ人生

今日も雑務で明日も雑務だろうけど朝になったら出かけてゆくよ

もう少し待ってみようか曇天が過ぎ去ってゆく時を信じて

更新を続けろ 更新を ぼくはまだあきらめきれぬ夢があるのだ

至福とは特に悩みのない日々のことかもしれず食後のココア

今日という日を懸命に生きてゆく蟻であっても僕であっても

あれでもない,これでもないと彷徨える言葉探しの旅だ。歌作は

生きているからこそうたうのだとおもう 地球という大きな舞台の上で

きみのために用意された滑走路きみは翼を手にすればいい

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